70回目の終戦記念日

昨日、70年目の終戦記念日を迎えました。
当時戦闘員として戦った10代、20代の青年は、
今や80代、90代、今まで黙して語るのを拒んでいらした方々が
重い口を開いて、当時の体験を語り始めていらっしゃいます。
耳を塞ぎたくなるような惨たらしく無残な出來事ごとを
激するのでもなくむしろ淡々とさえ見えるような様子で語られる
そのことに、心の奥にしまい込まれたものの大きさ、重さを思います。
本人の意思の如何に関わらず、
召集令状一枚で戦の真っ只中に放り込まれた方々、
無念な思いを抱いて戦場に散った方々、
そして大切な方々を国の政策故に奪い取られた方々
残された妻、子供、両親、兄弟、恋人、友人・・・
日本国が戦争によって失ったものの大きさは、
はかり知ることは出来ません。


玉音放送を聴いて泣き崩れる大人たちを
不思議な思いで見ていた幼い日の私でさえ、
毎夜B29の空襲におびえ、防空壕の中で震えていた経験があります。
一度照明弾が投下されれば、昼間のように明るくなる頭の上を
B29の巨体が影を落としながら覆いかぶさって来る様を
今でも夢に見ます。
「死ぬときはみな一緒よ、でもごめんなさいね」と
詫びた母の声。泣き叫ぶ弟の口を覆っていた私の右手。


父の勤務先は、日立製作所アメリカの空爆の対象になっていた
重工業の一つです。父は会社を守らねばならない立場、
3人の子供たちと東京から疎開していた母の弟と妹、
小学校3年生を頭に5人の子供を母に託して、父は黙々と
ゲートルを膝から下に巻き付け、出掛けて行きました。
そんな日々の後、
清水に残る父と母そして一番小さい弟と別れて
私たちは信州の伯母の家へと疎開したのでした。
終戦の4か月前のことです。
信州は空襲の無い、静かな所でしたけれど、
両親から初めて離れた4歳の弟は泣いてばかりいて、
十分さみしくて悲しかった私は、泣くことも出来ず、
歯を食いしばって我慢していた記憶があります。
伯母の家とはいえ、人に世話になるということは、
子供心にも遠慮があって、弟の失敗にハラハラしながら
肩身の狭い思いも抱いておりました。


一度だけ訪ねてくれた父が汽車のデッキに立って、
線路わきで見送る私と弟に白いハンカチを振り続けていたこと、
カーブを曲がった汽車から白いハンカチのはためくのだけが
いつまでも見えていたこと、
今も忘れることがありません。
太平洋戦争によって、家族を奪われる被害は、
我が家にはありませんでしたけれど、
戦争の緊迫した空気、
出征し、戦死した父親の白い布に包まれた骨箱を
抱えて俯いていた遊び仲間の男の子の顔
戦争を思えば、胸に突き刺さるような記憶は限りなくあります。
広島、長崎、東京、沖縄、戦地ばかりではなく日本の国土も
戦火に晒され、数えきれない命が消えていきました。
こんな惨たらしいことがあっていいわけがありません。
私たちの使命は、
「どんな事があっても二度と戦争を繰り返してはならない」
と言い続けること、阻止し続けること、
それが日本のために命を捧げ、
国を守ろうとして下さった方々への
私たちが出来るただ一つの恩返しだと思っています。


8月15日はお盆のお中日、
お盆は、彼岸に旅立たれた方々が、
懐かしい故郷の家族の許へと返る日とされています。
私も胡瓜の馬と茄子の牛を用意して、盆さまを迎えました。

戻られる方々を日本の料理でおもてなししたいものと
お膳を用意しました。

終戦から70年、今では帰る家も家族も無い英霊もおられましょう。
どなたさまでも歓迎です。
我が家に戻っている盆さまと一緒に楽しんでいただけたらと思います。